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はあ、と息を吐くと夜の闇の中に白い霧が広がった。かじかんだ指を擦り合わせて僅かな熱を生産する作業は、とうの昔に放棄していた。何も感じなくなった指先。冷たさを感じるよりマシか、と考えてしまうオレは、とうとう思考回路まで麻痺してしまったのだろうか。
街灯に凭れたまま、マフラーにうずめた顔を少し持ち上げて駅前のロータリーの真ん中に立つ時計を見る。時刻はきっかり8時を指していた。
……8時?
それはおかしい、さっき時間を確認したときも、時計は8時を指していた。確実に30分以上時間は経っているはずだ。まさかあの時計壊れてる?
真偽を確かめるためにじっと時計を睨む。睨み合いの勝敗はすぐについた。時計の針はてっぺんを指したままぴくりとも動く様子を見せない。オレはああと溜め息をついた。腕時計はしてないし、携帯は充電が切れたから役に立たない。駅の中に入れば簡単に時間は確認できるのだろうが、残念ながら動く気力はほとんど無い。時間を確認するという唯一残されたやるべきことまで取り上げられ、オレは肩を落とした。だけどすぐに思い直す。
まあ良い。時間なんて今のオレにとっては大した問題じゃないんだ。
電車から下りた賑やかな一団が駅の改札から出てくる。ほとんどの人間がオレには目もくれず、或いはオレの存在に気付いても、ちらと一瞥した後は急ぎ足で立ち去っていく。きっと視線を外した瞬間に、オレのことなんて忘れてしまっているのだろう。一体、彼らから見た自分は、どんな風に映っているのだろうか。家出中で夜を彷徨う学生か。それとも恋人を待っている少年だろうか。
「レン」
今朝のことだった。オレはリンの声で目を覚ました。
「どこか遠くに行こう」
オレはとろりとした意識の中でその言葉を繰り返し、うん、と一言答えた。何しろその時は目が覚めたばかりでオレも眠かったのだ。その返事に大した考えは無く、ただ反射的に答えただけだった。
「じゃあ、学校終わったら駅に集合ね」
冷たい指がオレの額の髪をかきあげ、それからくしゃりと頭を優しく撫でた。姉ぶる時のリンの癖だ。小さい頃にオレが泣いた時はいつも、リンはこうしてオレを慰めた。精いっぱい威厳のある表情をしてオレの顔を覗き込み、「男の子でしょ」と叱りつける幼いリンの顔と声が浮かんだ。だけどそう言った後は、決まってぎゅっとオレのことを抱きしめるのだ。
もちろんそれは本当に子供の頃の話で、大きくなるにつれて泣いたオレをリンが慰めるということはほとんど無くなった。だけどオレが落ち込んでいる時や悲しい時は、いつもリンはこうしてオレの頭を撫でて慰める。その時のリンは普段よりも少し大人びた、すごく優しい表情をする。それは記憶の中の少女には出来なかった表情だった。しかしオレはそうされるといつもむっつりとしてリンの手を邪険に払うのだった。もちろん照れくさいのもあったが、何より弟扱いされているのが面白くなかったからだ。それでもリンは怒ったりせずに「素直じゃないなあ」と笑うのだった。
しかしここ数年は、リンがそんな風にオレを慰めることすら無くなっていた。
懐かしい感覚に思わず浸りそうになったが、やはり弟扱いされるのは面白くない。「子供扱いするなよ」そう言おうとしたが、ふわふわと浮遊した意識では、それをちゃんと声に出来たのかはわからなかった。
「レン」
今まで聞いたことがないほどに優しい声音。そして、
「またね」
ひやりとした空気にさらされた無防備なオレの額に、柔らかな感触が落ちた。それはほんの一瞬のことだったが、オレは額に残るその一瞬の心地良さの余韻に浸った。
そして、唐突に覚醒した。
「……っ、リ、」
弾かれるように起き上がった時には、すでにリンの姿は無かった。夜明け前のひんやりとした静謐な空気だけが、オレの部屋に漂っていただけだった。
夢だったのだろうか、とオレは思った。しかし額に残る鮮明な感触は、それが夢でないことを証明していた。
朝食の時間になり、オレがダイニングに下りた時もリンは何処にもいなかった。キッチンを覗き込むと、母さんはシンクで洗い物をしていた。
「母さん、リン知らない?」
「朝ごはんいらないってさっきメールが来たわよ。先に学校に行ってるんじゃないのー」
ふうん、と納得したふりはしたもののどうも腑に落ちない。とりあえず席について、マーマレードジャムに手を伸ばした。
「レン」
「んー?」
「この間、リンを河川敷で見つけてくれたじゃない」
「うん」
「あの時、なんで河川敷の近くにいたの?」
母さんは相変わらず背中を向けていたので、こちらからは顔が見えなかった。トーストにジャムを塗りながら、うーん、とオレは首を傾げる。
「別に……これといった理由は無いけど」
「嘘。だったら何でわざわざあんな遠回りして帰ってたのよ」
「だから理由は無いんだって。本当に気まぐれだったからさ」
あの日は何となく寄り道をしたくなって、大した目的もないまま河川敷の辺りをうろついていただけだ。そして母さんからメールが届いた時に、偶然リンのいる場所の近くを通り掛かったのだ。確かに出来過ぎと思われても仕方ないような話だが、事実なのだからどうしようもない。
嫌につっかかってくるな、と不思議に思いながらオレはトーストを齧る。
「だっておかしいじゃない。気まぐれであんな遠回りする?」
「まあ、おかしいと言われたら確かにそうだねとしか言えないけど」
「本当はリンの場所知ってたんじゃないの?」
「まさか」
「じゃあじゃあ女の子に呼び出されてたとか? それだったらあの辺にいてもおかしくないわよね」
オレは溜息を吐いて食べるのを中断した。
「あのさ、なんで母さんそんなに気にしてるの? 残念だけど本当にただの偶然だよ」
シンクを流れる水の音と、食器が触れ合う音が響く。
それに紛れるようにして、そっか、と母さんは呟いた。そうだよ、とオレも返してあとは黙々とトーストを齧った。そうして朝ごはんを食べ終え、席を立とうとした時、母さんがテーブルにコーヒーを運んできた。
「飲む?」
「……飲む」
何だか今日の母さんは変だ。
あげかけた腰を下ろして席に着く。母さんは向かい側に座り、オレは少し緊張しながらコーヒーの注がれたカップに口を付けた。母さんは自分の分のコーヒーには一切手をつけず、じっとこちらを見ている。その視線が居心地悪くて、オレは身じろぎしながら視線を泳がせた。
奇妙な沈黙が流れた。母さんはオレがほとんどコーヒーを飲み終えた頃に、ようやくコーヒーを口にした。そしてカップをテーブルに置いて、静かに口を開いた。
「ねえレン。リンはどこに行ったのかしら」
オレはきょとんとして、首を小さく傾けてこちらを見る母さんを見つめた。どこも何も、母さんはさっき自分で「学校に行ってるんじゃないの」と言ってたじゃないか。
「レンはわかる?」
「いや、え、っと……学校、とか」
「そっか。学校か」
しどろもどろになりながらもそう答えると、母さんは微笑んで目を伏せた。
「……リンって本当に昔から人騒がせよねえ。運動神経は良いけどよくドジっちゃうし、頭も悪くないのにあんまり考えないし。それで最後にはいつもレンに迷惑かけちゃうのよね」
「……だね」
「もしかしたら今日もリンを探すことになるのかもしれないわね」
「うん」
「でも」
母さんの指がぴくりと震え、躊躇うような短い間があった。そして、
「……でも、きっとレンはリンがどこにいても一番に見つけるんだわ」
母さんは両手で包み込むように持ったカップに視線を落としたままだった。
オレは何も言わなかった。静まり返った空間に、無機質な秒針の音が響いた。
「もう、私だけじゃ、2人を守れないのかしら」
声になるかならないかという小さな呟きは、オレの胸をちくりと刺す。何と声をかけていいのかわからず、目の前で寂しそうに睫毛を伏せた母さんと向き合っていた。
確かに母さんは頼りないところもある。だけどいつだって明るくて、自信に満ちていた。だから、初めて見た母さんの表情にオレは戸惑いを隠せなかったのだ。
そうして、母さんが何事も無かったように明るく「そろそろ遅刻するわよ」と言うまで、オレは石のように動けないままだった。
鞄を持ちのろのろと席を立つと、玄関へ向かう。靴を履き終え出ていこうとした時、レン、と呼ばれ振り返った。
「お弁当! 忘れてるわよ」
「あ、ごめん」
「それと」
突然、母さんがオレに向かってすっと両手を伸ばした。え、とオレは小さく声をあげる。ふわりと優しい匂いがして、そして気が付くと優しく抱きしめられていた。
「母さん」
突然のことに驚き、かといって無理に突き放すことも出来ずにオレは慌てた。玄関の段差のせいで母さんの方が高い位置にいるはずなのに、何だかいつもよりも小さく見えた。こんな風に抱きしめられるのは随分久しぶりのことだったが、何だか少し安心したような気持ちになった。
オレを抱きしめる力を強くして、母さんは囁いた。
「レン。リンのこと、守ってあげてね」
語尾が小さく震えていたのは、きっと気のせいじゃないだろう。うん、とオレは頷いた。母さんはそっと身を離し、オレを見据えた。眉尻を下げ、それでも笑いながら、母さんの唇が小さく、ごめんねと動いた。
「ごめんね、レン」
ううん、とオレは頭をふった。母さんが謝る必要なんて何も無い。
オレはずっと、感謝してる。リンとオレを生んで、出会わせて、そして見守ってくれたことを、誰よりも感謝してる。
この気持ちが少しでも伝わると良いと思いながら、オレは笑った。
「ありがとう、母さん。いってきます」
玄関の扉を開けた。いってらっしゃい、という母さんの声は、もういつも通りの母さんのものだった。
もし、これが母さんの答えなのだとしたら。
だとしたら、オレがすべきことは、ただ一つだった。
下駄箱にリンの靴は無く、どうやら学校にも来ていないようだった。朝のホームルームで担任が出席をとる時にリンのことを訊いてきたが、オレはわかりませんとだけ答えた。
「珍しいじゃん、レンが姉ちゃんのこと知らないなんてさ」
クラスメイトが茶化しても、オレは黙って肩を竦めただけだった。オレだってリンだって、お互いのことを何でも知っているわけじゃない。もちろんそんなことを彼に言っても仕方が無いことだとわかっている。だからオレは貸していたゲームに話題をスライドさせた。
ぽっかりと空いたリンの席。時々ぼんやりと窓の外を見つめるリンの姿が見えないのは不思議な気分だった。何とも形容しがたい、寂しさと不安と安心をかき交ぜたようなそんな感情。
リンはあの席から窓の外の何を見ていたのだろうか。彼女の目に映る世界はどんなものなのだろうか。
リンの目に、自分はいったいどんな風に映っているのだろうか。
知りたい、と思った。無性にリンに、会いたかった。
オレの意識は再び凍りつくような寒さの駅前に戻っていた。固まっていた首の筋肉をゆっくりと動かし、空を見上げた。ぽっかりとした闇だけが頭上に浮かんでいる。月は見えない。駅前は明るいから星もほとんど見えなかった。もし今日が新月なら、きっと綺麗に星が見えるはずだろう。
そういえば、いつかリンも言っていた。月を見るよりも星を見るほうが好きだと。理由を訊いても教えてはくれなかったけど、今なら、少しわかる気がする。
リンをおぶって帰った満月の日。太陽よりも穏やかだけど、月の光は確かにオレたちの影をくっきりと足元に落としていた。その影は寄り添いあうオレたちをまるで責めるように、オレたちの罪を目の前に突きつけるようにつきまとっていたのだ。ずっと。ずっと。
あの時背中のリンは泣いていたのかもしれない。それすらもわからなかった。ましてやその理由なんて、わかるはずもない。
オレたちはきっと、生まれた瞬間が一番近い場所にいたのだろう。だけどそれからはただ離れていくだけだ。その速度もどんどん加速していく。それを止める術をオレは知らないし、多分この世に存在もしないだろう。
以前のオレはそのことに絶望して必死に抗って、だけど最後には諦めて投げやりになっていた。自然に離れていくのが嫌だったから、それならばいっそ一生届かないくらいに無理矢理離れようとした。だけど結局そうすることも出来なかった。
だから決めたのだ。絶望とか希望とか、未来とか過去とか、そういうものを全部ひっくるめて、まるごと受け入れて生きてみようって、そう思った。そして一度腹をくくってしまえば、不思議と楽になった。
不安が無いと言えばそれは嘘になる。だけど、それでも、一緒にいたいと思った。一番大切な女の子の傍に、ずっといたいと思った。
はあ、と息を吐く。何だか少し眠い。目を瞑る。それでも街の光のきらめきは瞼の裏に残っていた。
闇の中に光る残光。何だか星みたいだ。
ジェミニ。双子の星。太陽ほど暴力的でもなく、月のように冷たくもない光。オレたちを導いてくれる光。
ジェミニ。
――――オレと、リンの星。
「レン」
コツ、とローファーが地面を鳴らした。その後に続く小さな笑い声。
「空気が澄んでるから今日はきっと星が綺麗に見えるねえ」
オレは瞼をあげたが、何も言わなかった。目が合うと、へへ、ともう一度彼女は笑った。右手に持った缶をオレの頬に押しつける。そこから温かさがじわりと広がった。感覚が戻ってゆく。寒さで凍りつきそうになっていた感覚が、ゆっくりとほどけてゆく。
「リン」
オレはリンの左手を掴んでぐいと引きよせた。うわ、とリンが声をあげたが構わずにぎゅうと抱きしめる。今朝、母さんに抱きしめられた時に感じた安心感は、リンを抱きしめた時にも確かにあった。やっぱり彼女らが親子だからだろうか。それともオレは所謂マザコンってやつなのだろうか。
だけど、リンを抱きしめた時に感じるのは、安心感と言うよりも胸が苦しくなるほどの愛しさだった。どきどきと心臓が高鳴り、苦しくて、少し不安で、だけどいつまでもこうしていたいと思えるほどの幸福感が胸を満たすのだ。
熱い首筋にそっと頬を寄せると、どくどくと血が流れているのが伝わってきた。この血が今オレの体にも流れている。そんなことずっと前から知っていた。だけど、それなのに、どうしてこんなに、それすらも愛しいと今は思ってしまうのだろう。
「……寒くて死ぬかと思った」
「うん。だからほら、ココア。買ってきたよ」
「それで済ませる気かよ」
「レン、ココア好きでしょ」
「コーヒーが良い」
「ざんねーん。リンは今日、ココアが飲みたい気分だったの」
そうおどけたように言ってから、リンはオレにそっとすり寄った。
「……ねえレン」
「うん」
「後悔してる?」
「……ううん」
「帰ろうと思った?」
「ううん」
「帰りたい、って、思った?」
「ううん」
思うもんか。お前のいない場所に帰りたいなんて、そんなこと思うわけない。リンだってそうだろう? だからここに居るんだろう?
問いかけるように見つめると、リンは顔をあげて、柔らかく相好を崩した。
「星、見に行こうよ」
「オレもそう言おうと思ってた」
リンはゆっくりと手を伸ばし、オレの前髪をかきあげてから頭を撫でた。そして両手でオレの頬を包み込むとそっと顔を引き寄せ、今朝したようにふわりと額に唇を寄せた。
沈黙が落ちた。喧騒が遠く俺たちを取り巻いて、2人だけ違う世界に取り残されたような気分だった。それは少し寂しくて悲しかったが、不思議と怖いとは思わなかった。
「リン」
オレは呟く。覗き込んだ瞳に自分の姿が映っていた。ああ、リンにはこんな風に映っているのか。とオレは思った。悪くない。とても穏やかで、幸せそうな顔をしている。
オレは身を屈め、誓うようにそっとリンの唇に触れた。それはひやりと冷たく、驚くほどに柔らかかった。ほんの一瞬のことなのに、その感覚にオレは一瞬で囚われてしまった。そっと唇を離すと、リンは伏せていた睫毛をゆるゆるとあげて、オレを見つめた。そして、微笑んだ。オレも、微笑んだ。
どうしてか泣いてしまいそうだった。体の芯から湧き上がる感情が、涙になって溢れようとしているみたいだった。それを気取られたくなくてリンを引き寄せて、もう一度抱きしめた。体が浮いてしまいそうな位、ぎゅうっと強く抱きしめれば、リンは腕の中で鈴の音のような笑い声を短くあげた。そして、しっかりと抱きしめ返してくれた。
――――ああ、本当に泣いてしまいそうだ。
腕の力を緩めれば、するりとリンは腕から抜け出した。そしてすぐにオレの手を取った。冷たいリンの指を握り返し、互いに視線を交わして笑い合った。
「行こう」
しっかりと手を繋いだまま、オレたちはゆっくりと歩みだす。月は無くて、星が出ていた。オレの隣にはリンがいて、リンの隣にはオレがいた。それだけがオレの世界で、世界もそれだけだった。
ずっとずっと、馬鹿みたいに願っていた。本当に、ただそれだけを願っていた。
10.08.25
鏡音大好きです。