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orizaさんのリクエストに私の好きな要素を好きなだけ。夏が好きです。自転車が好きです。それに鏡音が加われば、もう言うこと無いです。
肩を大きく上下に動かしながらオレは必死にペダルを漕ぐ。ふざけんなと毒づきたくなる程に急こう配の坂道は、目眩がしてしまいそうなくらいに高く長く目の前に伸びている。焼けつくような太陽の光が肌を焦がしていく。のろのろふらふらと危なっかしく坂を上るオレの自転車の横を、嘲笑うようにバスが追いこして行った。畜生、と胸中で呻く。実際、呻く力すら残っていなかった。余計なことに力を使えばその瞬間自転車とオレの体は、フライパンみたいに熱い地面にぱたりと倒れてしまうだろう。
汗が吹き出す。息が苦しい。それでも絶対に漕ぐ足は止めない。
オレを追いこしたバスが陽炎で滲みゆらゆらと揺れる。坂の上では目が痛くなるような白い入道雲がオレを待っていた。
「――――あとちょっと」
頬を伝った汗が、顎から滴り落ちた。
オレの中学にクーラーなんて高尚なものは存在しない。地球温暖化防止とか質実剛健な大人になるためとか色々理由は挙げられているが、じゃあ何で職員室にはクーラーはついているんだと言いたくなる。大人は地球温暖化防止しなくていいのか? そもそも今の大人のせいで地球温暖化が進んでいるんじゃないのか? 大人は質実剛健じゃなくて良いのか? そもそも質実剛健って何だ? と言いたいことは山のようにあるが、言ったところでオレ達の蒸し風呂のような教室にクーラーが設置される確率はゼロに等しいので何も言わない。余計なことにエネルギーは使わない。まさにクールビズ。省エネ。地球にやさしいスマートなお子様なのである。
とは言っても暑いものは暑い。
昼休みに突入し人もまばらになっている教室。オレは友人達と教室のど真ん中に胡坐をかいて今頃馬鹿みたいに冷えている職員室に居るであろう先生達に呪いの言葉を吐いていた。何ら意味の無い行為だ。全くもってエネルギーの無駄である。そしてその無意味さに一同が気付き空しくなり始めたその時、オレは言い様のない衝動に襲われたのだった。
すうっと。
うだるような暑さもクラスメイトのわけの分からない呪詛も、人気のない教室の景色も全てが意識から遠のいて、そして声が聞こえた。
一瞬のことだった。
瞬きをすると、またオレの意識は昼休みが始まったばかりのむっとした教室に着地していた。
…………これって。
オレは立ち上がった。レン? とクラスメイトが首を傾げて俺を見る。
「――――ごめん、オレちょっと」
「レン!」
教室に居た生徒全員が飛び上がらんばかりに大きな声が飛び込んできて、平和な昼休みの空気は突如として切り裂かれる。やっぱりなあ、とオレは半ば感嘆しながら振り返る。
去年同じクラスで仲が良かった友達が、息を切らして教室の入り口に立っていた。夏服の開襟シャツは気崩したというには少し乱暴にしわくちゃになっていて、必死な形相をした顔は蒼白、額には汗が浮かんでいる。その口が次に何を言うのかは大体予想がついていた。
「リンちゃんが……!」
やっぱり。
本日二度目の“やっぱり”だ。そう思ったのは、オレの姉がしょっちゅう問題を起こす生徒だから、という理由じゃない。確かに姉は少し決まり事を無視する傾向はある。だけどそれはオレだって同じで、だからと言って警察にしょっ引かれたり退学の危機になったりだとかそういう大きな問題を起こしたことは一切無かった。どこの中学にも必ずいる、拘束を軽視しがちな生徒の一人というだけだ。
オレがやっぱり、と思ったのはいわゆる虫の知らせ、とでも言うのだろうか――――ごく稀に、姉さんに何か起こった時にさっきのような不思議な感覚に陥ることがあるのだ。
友達は苦しそうに息をしながら、じたばたと無駄なジェスチャー付きで喋り出した。
「い、いきなり箒を振りまわして、先生呼ぼうと思ったんだけど、あ、えっと、リンちゃんが教室で無茶苦茶暴れてて、なんかもうしっちゃかめっちゃかになって、まずお前に言っておこうと思って、ホント突然で理由は良く分かんないんだ、あ、他の奴らが止めようとしたんだけど全然駄目で、それで、なんだっけ、えーっと、いいからとにかく一組に来い!」
相当焦っているのかいまいち言っていることが伝わり難い。少なくとも姉さんが階段から落ちたとかぶっ倒れたとかそういうことじゃなさそうだった。
とにかく一組のこいつが十組のオレの所までわざわざ走って来てくれたのには非常に感謝したいところだ。そして、先生に知らせる前にオレのところに来てくれたことも。十組は職員室に一番近い。そして一組は職員室から一番遠い。この優しい友人は職員室に行くついでにオレに知らせてくれたのだ。オレからしてみればナイス判断としか言いようがないが、それと同時に彼には判断を見誤ったなと同情せざるをえない。
オレは真剣な表情を取り繕った。
「分かった、ありがとう。だけど姉さんのことは先生にはオレが知らせておくから、お前は教室戻れ」
「えっ、いや、俺が言うって! とにかくレンは教室に行っ……て……」
友達の言葉が尻すぼみになっていったかと思うと、彼はへなへなとその場にへたり込んだ。状況が飲み込めず唖然としていたクラスメイト達が、慌てて青い顔をして蹲った彼に群がる。そう。何を隠そう、彼は体育の授業はほとんど見学し、模試の成績で何とか2を取るという典型的な病弱少年(そして異常なまでの運動嫌い)であった。そんな彼がこのクソ暑い昼間に一組から十組まで廊下を全力疾走したことは園児がフルマラソンを完走した事実と同じくらい奇跡的なことなのである。きっとオレと、オレの姉の絆を信じそして案じ、これ以上被害が広がらないよう最善の策を考えた上で取った行動なのだろう。
どこまでも優しい友人と、その彼を追い詰めたこの夏の気温に生まれて初めて感謝しながら「オレは職員室行くからそいつよろしく」と言って教室を出た。もちろん、向かうのは職員室ではない。姉の居る一組だ。
三組辺りまで来た時、一組の前に人だかりが出来ているのが見えた。そして穏やかな昼休みにまるで相応しくない何かがぶつかり壊れる派手な音も。流石に心配になってきてオレは走り出した。
人だかりの一番後ろに居た生徒がオレに気付き「レンが来た」と囁くのが分かった。途端に教室の入り口まで人垣がぱっと割れて道が出来る。まるでモーセみたいだなあと、この間授業で教えてもらった話を早速日常に活かしながら、申し訳なさ半分恥ずかしさ半分でオレは進んだ。そして、とうとう一組に足を踏み入れた。
一言で言うと、とにかくひどい有様だった。
机と椅子があちこちでひっくり返り、教科書やプリントや筆箱が教室の床に下手くそなコラージュみたいに散らばっていた。椅子のいくつかは足がもげて痛ましい姿で横たわっている。掃除用具を入れるロッカーはひしゃげて倒れ、カーテンが一枚、床にぐしゃぐしゃになって落ちていた。そして信じられないことにその傍らに、二名の男子生徒の屍があった。いや、流石に死んでいないだろうが、気絶しているのかぐったりと倒れている。
「他の奴らが止めようとしたんだけど全然駄目で」という、今頃保健室のベッドに転がされているであろう友人の言葉を思い出し、心の中でそっと勇敢で無謀な戦士達に向かって合掌した。一組の教室は今や戦場のような光景だった。ここがごく平凡な中学校の昼休みの光景だとはにわかに信じ難い。
そしてそんな凄惨な光景をした教室のど真ん中。十組の教室で言うと俺がちょうど呪詛を吐いていた位置に、この地獄絵図を生み出した張本人と思われる我が姉は仁王立ちしていたのだった。どういうわけか彼女は机の上にすっくと立っており、その手には長箒が握られている。そしてそんな姉に見下ろされる形で、ショートカットの女の子が攻撃的に目を爛々と光らせ立っていた。
二人は睨み合ったまま動こうとはしない。
確かにしっちゃかめっちゃかだ。と、オレは大いに納得した。
「……おいレン!」
「分かってるって」
何も行動を起こさないオレに痺れを切らしたのか、ギャラリーの一人から急かすように脇を小突かれる。とりあえず姉さんは、ぴんぴんしているようなので一安心といったところだった。オレは一歩、教室の中心へと足を踏み出した。緊迫した雰囲気のせいか、ここの教室だけが温度が少し低いような気もする。今や手負いの獣と化し殺気立つ姉に近付くごとに、冷気が漂う錯覚を覚えた。
「姉さん」
「来ないで」
姉さんはこちらを見もせずに、厳しく言い放った。近付くと、唇の端から血を流しているのが分かった。よく見れば、夏服から伸びるむき出しの細い手足のあちこちにも痛々しい痣が浮かんでいた。オレは眉をひそめた。
「そういうわけにもいかないって。とりあえず机からおりなよ」
「やだ」
「誰の机だよそれ。自分のじゃないだろ。ほら、パンツ見えるよ」
「…………」
「無理矢理引きずり下ろすぞコノヤロー」
そこで姉さんが、ようやくオレの方を見た。
引き結んだ唇。乱れた前髪の隙間から覗く瞳は怒りを孕んでいたが、それと同時に悲しそうに揺れていた。
――――ああ、ほら。やっぱりオレのこと呼んでたんじゃないか。
オレは姉さんに向かって手を差し出す。姉さんはそれをじっと見つめ、そしてそろそろと握った。
「……ほら。姉さん」
促すように手を握り返す。姉さんは唇を尖らせ俯いていたが、結局しぶしぶといった様子で机を蹴った。ふわりとスカートが広がり、まるで体重が無いみたいに軽やかに着地する。「パンツ見えたぞ」とオレが笑うと、無言のまま背中を叩かれた。張りつめていた空気が、ゆるりと解けた。
「気持ち悪い」
凪いだ水面に石を投げるように、その言葉は教室に響いた。今まで息を潜めていたかのように沈黙を守っていたセミが、その瞬間わんわんと鳴き始めた。
オレは、声の主を見た。姉と対峙していた少女。相変わらず攻撃的な目つきでオレ達を睨んでいる。姉さんが体を強張らせて、振り返って少女を見た。肩をいからせ近付こうとした姉さんを、繋いだ手をぐいと引くことで押しとどめる。
「ちょ、っとレン……!」
「いいから。姉さん、行こう」
何か言いたげにオレを見る姉さんを、じっと見つめ返す。結局姉さんは子供のような表情で唇を噛むと、握っていた箒を床に放り投げた。今回はこれで我慢してくれたようだ。その手を引いて教室の出口に向かう。しかし声はまだ追いかけてくる。
「みんな言ってるんだから! レン君もリンも双子なのに、恋人みたいに一緒に居て気持ち悪いって! みんなみんな、思ってるんだから!」
足を止めて顔を上げた。オレと姉さん、そしてしっかりと繋ぎ合った手に物珍しげな、そしてどこか嫌悪するような視線が突き刺さっている。オレはぐっと、汗ばんだ掌に力を込めた。そして振り返る。女子生徒はオレと目が合うと小さく身を震わせた。
「な、なに……言っておくけど嘘じゃ、」
「黙って」
自分でも驚くほどに低い声が出た。
「二度と姉さんに近付かないで」
踵を返しオレは今度こそ教室を後にする。教室の入り口にかたまっていたギャラリーに「どいて」と言うと、行きと同じようにぱっと人波が割れた。こちらを見る視線を静かに睨み付けるとすぐに視線を逸らされた。オレは姉さんの手を引いたまま廊下に出て、階段をおりた。
姉さんは何も言わない。
一階の廊下は上の階で何が起こっているかなど露知らず、穏やかな夏の午後の空気が流れていた。その廊下を突き進んでいると、喧噪に紛れて小さく息を呑む音がした。そっと姉さんを窺うと、細い肩が小さく震えていた。最初は小さかったその震えは、少しずつ大きくなり、そして
「っく……ぷ、く、っあはははははは!」
姉さんはとうとう堪え切れずに笑い声を爆発させた。オレは溜息をついた。
「笑うなよな……」
「だーって、手を差し出した時のレンってば王子様みたいだったんだもん! 仕草がいちいちキマっててさあ! ぶはっ」
「褒めてんのかそれ」
「褒めてるよー。ていうかギャラリーもあの子も最後辺り完璧レンにビビっててスカッとしたなあ。ばーかっ、ザマあみろっ。ウチのレン格好良いだろう! はーっはっはっは」
教室に頭のネジをおっことしてきたんじゃないかというくらい大きな声で笑うので、一年生が怯えた目をしてオレ達を見ていた。何も知らない後輩を脅かすのはさすがに胸が痛むので、からからと笑う姉の手を引き、足早に一年生の教室の前を通り抜けた。昇降口へ辿り着くと、昼休み終了のチャイムが鳴る前に急ぎ足で教室に戻る生徒たちで溢れ返っていた。そんな彼らと入れ替わりで、オレ達は靴を履くと悠々とした足取りで外に出た。
日陰から出た瞬間、太陽の光と熱が容赦なくオレたちを襲った。手は離さずに並んで歩きだす。グラウンドの土は白く光り、熱く乾いた風が耳元を掠めた。真夏の日差しにさらされながら、校舎に背を向けてグラウンドを歩きだす。
「そういえば姉さん、怪我。大丈夫なの」
「あ、大丈夫。軽くぶつけただけで骨は折れてないし、かすり傷だよ。ていうか怪我のほとんどが自分でこけたりぶつけたりしただけなんだけどね」
「……なら良いけど。保健室行こうか?」
「やだー絶対理由訊かれるもん」
姉さんはそう言って繋いだ手をぶんぶんと振り回した。
「ホント腹立つ! 私のこと気に入らないからってこそこそ陰口言って、ムカつくなら正々堂々言いなさいっての! あの子……」姉さんはそこで声を落とし、俯いた。目元に落ちた影が、姉さんの表情を隠した。「……きっとあの子、レンのこと好きなんだよ。だから私にやきもち妬いてあんなことしたんだろうね」
射るような太陽の光で白く照らされたグラウンド。そこに映る足元の真っ黒な影を睨みつけたまま、姉さんは繋いだ手に力をこめた。
「……それに、女の喧嘩に男が口を挟むなって話だよ!」
そこで教室の隅に転がっていた彼らが屍(多分死んでないけど)と化していた理由がオレの予想から外れていないことが分かった。リンは箒を持っていたのだ。止めに入ったは良いものの、さすがに女子相手に本気を出せずやられてしまったクチだろう。侮るなかれ、うちの姉は麗しくたおやかなだけではなく、そんじょそこらの野郎よりも強かなのである。
とはいえ姉さんの強さを前にして最後まで女子相手に暴力を振るわなかった彼らには感謝の念を抱かざるを得ない。もし彼らが隣の片割れを傷付けていたなら、きっと今頃あの凄惨な教室のど真ん中で仁王立ちしていたのはオレだっただろう。そしてあの女子生徒は自分の性別に感謝すべきだ。繰り返すようだがオレはジェントルマンだ。ジェンダーフリーだのなんだの囁かれている今日だが、女子に手を上げるのはさすがに躊躇われる。そう。オレは基本、平和主義なのだ。無駄なエネルギーは使わないエコなジェントルマン。なんかダサい。
そんなオレとは対照的な姉は、このうだるような暑さの中で無駄に四肢を振り回し怒りを発散することにエネルギーを費やしていた。
「もおおムカツクんじゃー! 大っ嫌い、ばーかっ、教室の後片付けよろしく! ははは!」
姉さんは怒っているかと思えば今度は大笑いしだしてとても忙しそうだった。身をよじってお腹を抱えて目に涙を浮かべて笑う姉をオレは見つめる。校庭のど真ん中で、オレは立ち止まった。姉さん、と呼びかけたがまるで無視。
「はははっ、ぶはっ、あーおっかしー」
「……姉さんってば」
「はは、は」
「――――リン」
熱風が、頬を撫ぜた。
砂ぼこりの向こうでゆら、と姉さんの体が揺れ、そして笑い声は唐突に止んだ。口元に笑みを残したまま、姉さんは睫毛を伏せた。その瞬間、目尻にたまっていた涙がぽつりと夏の日差しの中に光って落ちた。
「……姉さんって呼ばれるの、嫌い」
「だから今、やめたじゃん」
「ずっとリンって呼んでよ」
涙交じりの声でリンは懇願する。外見だけが大人びていく姉に見え隠れする幼い内面は、いつでもちぐはぐでひどく不安定に映る。ざり、と校庭の砂を蹴って姉さんはそっとオレに身を寄せた。
「だって、だって……あいつら何も知らないくせに……私のこともレンのことも何も知らないくせに! どうしてあんな、あんな風に言われなくちゃ」
リンの肩が、拳が、小さく震えていた。ぼふっ、と乱暴に姉さんがオレの胸に額をぶつけた。左胸に触れた額はひどく熱く、そこからじわりと体中に熱が広がっていく。熱かった。でも、引き剥がそうとは思わなかった。
太陽の光を吸い込み熱を持ち始めた金色の髪は、真上に浮かぶ太陽みたいに眩しい色だった。オレは目を細めて空いた方の手でリンの頭をそっと撫でた。その瞬間リンの体が跳ねる。
「いだっ!」
「え? あ、リン。ココたんこぶ出来てる」
「えっ。もおー! レンー!」
「オレのせいじゃないって。ほら、よしよし」
「だから痛いってば! ばかっ」
ぱっと額を離してリンはオレを睨み付ける。口調こそ怒ってはいたが顔は笑っていて、浮かべていた涙は日差しのおかげでいつの間にかすっかり乾いていた。
安堵が胸に広がって、オレもようやく頬の筋肉を緩めて笑い返した。
「よし、じゃあ帰ろっか。レン」
「……だなあ」
あれだけカッコつけた手前、教室に戻って大人しく授業は受けるのは恥ずかしい。そもそも授業を受ける前に生徒指導室へ強制連行される図が容易く想像出来た。どちらともなく、駐輪場に向かって歩き出す(今朝は二人乗りで来た。言わずもがな、これも立派な校則違反。というか交通違反)。リンと繋いだままの手はどっちの汗か分からないくらいにべたべただったけど、ちっとも気にならなかった。
「家帰ったらめちゃくちゃ怒られるねぇ」
「そりゃそうだ」
「もしかしたら謹慎処分ってやつかも」
「それこの間のドラマの展開じゃん」
「それか留年とか? 下手したら退学とか」
あれこれと自分の処遇候補を挙げていくリンの表情に陰りは無い。それどころかどこか楽しそうにも見えた。その笑顔をみるだけで、オレの中にきらきらとした力が生まれる。家に帰ったら待っているであろう親の雷も、明日待ちうけているはずの長い長いお説教も、まるで怖くない。
駐輪場に着いて自転車を引っ張り出す。夏空の色をしたブルーの自転車は二人で選んで買った物だ。名前はアレクサンドロス。アレクサンドロス大王から取ったけど、どんな人かはよく知らない。リンは最初インノケンティウスが良いと言っていたけど、インノケンティウスについてググってみたらオレもリンもあまり好きになれなかったのでアレクサンドロスになった。しかし名前を決めた日以来アレクサンドロスが名前を呼ばれたことは無い。
オレはサドルに跨り、リンは荷台に乗った。普段はじゃんけんでどちらが漕ぐかを決めるのだが、オレは怪我をした女の子に自転車を漕がせるような男ではない。
オレは振り返った。
「よし、リン。どこ行きたい?」
「へ? 帰るんじゃないの?」
「こんなに早く帰ったって母さんに問い詰められるだけだろ。リンの好きなところ連れてってやる。出血大サービスだ」
「どっちかっていうと出血してるのは私の方なんだけど……」
「いいから! 早く言わないと自動的に行き先はラブホになる」
ばーか、とリンは肩を震わせて笑った。
「えーとね……あ、じゃあ海行こうよ」
「海? げっ、ここからけっこうあるじゃん」
「どこでも良いって言ったのはレンでしょ。男に二言は無い! ほら早く早く! 行こうレン!」
足をじたばたさせて急かすリンにオレは深い溜息をついて、そしてぐっと息を吸い込んだ。
「あとちょっと。ほーら頑張れレン!」
熱い掌が、汗でべっとりと濡れているであろうオレの開襟シャツの背中に触れる。汗が顎から滴り落ちた。もうすぐ上り坂の終わりだ。数メートルが数十メートルに感じる。お気に入りのスニーカーが、鉛の靴のようだ。
そんなオレの限界を感じ取ったのか、本日何度目か分からない問いをリンは繰り返す。
「ねえ、やっぱり私おりようか?」
「いい」そしてオレは本日何度目か分からない答えをきっぱりと繰り返した。「おりなくて、良い」
絞り出した声は呻き声と変わりないような情けない声だったが、リンは嬉しそうに「そっか」と返事をした。無くなりかけていたエネルギーが、再び胸にともり、全身に巡っていくのを感じた。
オレを突き動かしてくれるこのエネルギーを生み出すのはリンだ。何もかもが急速に変わっていく今、それだけは昔から変わらない。恐怖や不安や痛みや悲しみは、リンが全部力に変えてくれる。だからオレは、ずっとずっとリンを守っていたい。子供みたいな願いだって自分でも思う。だけどそれで良い。オレはまだ、子供だから。
潮の匂い、とはしゃいだ声が、オレの足を奮い立たせる。遠くに見えていた入道雲が、すぐ近くまで迫っていた。眩しく光る雲の白さが目に刺さる。挑むように顎を上げて歯を食いしばった。頑張れ頑張れ、とはしゃいだ声が背中を押す。オレは最後の力を振り絞って、ペダルを踏んだ。
唐突に、視界が開けた。
強い風を、全身に感じた。
オレとリンの声が重なって、響き渡った。
「海だ!」
視界いっぱいに、夏の空よりも深い色をした青が広がっていた。
自転車を止めて、呆然とその景色に見入る。何度も見たはずなのに、なぜか今までで一番綺麗な青色に見えた。呼吸するのを忘れそうなくらいに、深くて優しい青色はちらちらと光り、揺れていた。
「……レン」
「うん」
「海だよ」
「海だね」
「海……海だ。私達本当に来ちゃったんだ。学校サボって、二人で海に来たんだ!」
やったーっ、とリンはオレの背中に抱きついた。シャツは汗で濡れているだろうに、そんなのちっともお構いなしで「凄い凄い」ところころ笑っている。オレは疲れきっていたが、なんとか「そうだな」と相槌を打った。
学校サボって海に来たって明日が変わるわけじゃない。両親の雷も学校側からの何らかの処分も、そして動くのもうんざりするような筋肉痛も待っているはずだ。ただリンの笑顔が見たいという理由だけでへとへとになるまで自転車を漕ぐオレを、大人は馬鹿だ愚かだって言うかもしれない。こんなのただの現実逃避だ青春ごっこだって嘲笑うかもしれない。
だけどオレ達はまだ十四歳なんだ。シャカイとかテイサイとか、そんなわけの分からない言葉なんかにまだ縛られたくなくても良いはずだ。それに、君たちは何だって出来ると先に言ってきたのは、オトナの方じゃないか。
やりたいことをやっていたい。無駄なことにエネルギー使ったり、馬鹿みたいに泣いたり笑ったりしていたい。何かを嫌いになるよりも、好きなものをもっと好きになりたい。
好きなものを、好きでいたい。
リンはオレの背中に頬をくっつけたまま、いつの間にか大人しくなっていた。波の音に耳を澄ます。まわされた細く白い腕についた痣。労るように触れるとリンはまわした腕に力を込めた。
「ありがとな」
ありがとな、リン。オレのために怒って泣いてくれて。オレのこと、守ろうとしてくれてありがとう。
「私こそ、ありがと。レン」
囁くような声が、胸の奥を震わせた。これくらい平気だよ、とオレは笑った。強がりじゃない、本当なんだ。オレがリンに救われるように、リンを救い出すのもオレだって決まってる。本当は凄く泣き虫なリンを守るために、オレはきっとリンと一緒に生まれたんだ。本気でそう信じてるって言ったら、リンはきっと泣くんだろう。泣きながら笑ってくれるんだろう。
後ろに体重をかける。重い、と抗議の声が上がったが、まわされた腕がほどかれることは無い。吹き過ぎる海風と背中に感じる熱と透明な海の青を、いつまで覚えていられるのかなと思った。そして、いつまでも覚えていようとも。いつかこの記憶が自分とリンを結び付けてくれるものになるとオレは信じていた。
ずっとこんな風に、リンの傍でリンの熱を感じながら生きて、同じ景色を、同じ空間で、同じ時を過ごしながら共有していたい。そのためなら、オレは何だってしよう。
「ねえレン、これからどうする」
「どうすっかなー」
「じゃあさ、今日はもっと遠くの海まで行こうよ!」
「えっ、ちょ、おま」
「それでもっと綺麗な海を見つけよう! さあ行けーっ、レン! 夕日に向かって走れっ」
どこの学園ドラマだ、と突っ込みたくなるような台詞だったが(そもそも夕日にはまだ早い)楽しそうな声にこれ以上反論なんて出来るはずが無い。
リンはただ、傍らで笑ってくれれば良い。それだけで良いんだ。
吹きつけてくる海風を胸一杯に吸い込んで、オレはペダルに足をかけた。
そうしてこのまま二人だけで、どこまでも、いつまでも、誰の手も届かないところに行けたら、とオレは本気で願ったりした。
11.03.22
まだ十四歳だった。だけどもうすぐ、十五歳だった。