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付き合うことになった、とレンが言った。
そう言って笑ったレンは照れ臭そうな、だけどほんのりと幸せを滲ませた表情で、レンがそんな表情を浮かべるときは決まってあたしも幸せな気持ちになっていた。レンの幸せはあたしの幸せで、あたしの幸せもレンの幸せだった。それは昔から、それこそ生まれた時からずっと変わらない事実だった。事実だったのに、その時あたしはレンの言葉にただ呆然とするしかなかった。そんなあたしの様子に気付きもせずにレンは言葉を続ける。
「これ、手紙ももらったんだ。今日の」
「貸して」
レンの言葉を遮って、あたしはやっとのことで一言、言葉を紡いだ。どんな内容なのか、誰からの手紙なのかは聞かなかった。聞きたくなかった。そんなことよりもレンの手に握られた真っ白な便箋がひどく汚らわしいもののように感じられて仕方なかった。レンは目を丸くして首を傾げた。
「え……何で?」
「いいから、早く」
「いや、でも」
予想していた反応が返ってこなかったことに驚いたのか、それとも顔も名前も知らない誰かさんからもらったその大事な手紙を渡したくないのか、レンはまごついた様子で手紙とあたしを見比べた。その反応はひどくあたしを苛つかせた。そんなに大事なものなの? その紙切れがあたしと比べるほど、大事なものなの?
どうしたんだよリン、と尚も困惑した表情のままのレンに、あたしの苛立ちは頂点に達した。
「いいから渡してってば!」
ヒステリックにそう叫ぶとレンにつめ寄り、乱暴に封筒を奪い取った。そのまま止める間も与えずに、その便箋を2つに引き裂いた。レンが驚いてあたしの手を掴んだが、あたしはその手も振り払って、破った便せんを床に叩きつけた。
「何すんだよ!」
レンがすぐにそれを拾い上げてあたしを睨み付ける。その瞳に浮かぶ本物の憎悪はまっすぐにあたしに向けられていて、あたしの中で真黒に燃え上がっていた怒りは急速にしぼんで、代わりに身が捩れそうなほどの恐怖と悲しみが胸いっぱいに込み上げてきた。レンがそんな目をあたしを向けることなんて一度もなかったのに。そんなもののために、レンはあたしを憎んだりするんだ。そんなものが、あたしより大事だっていうの。そんなもの。そんなものが。
唐突に、じわりと視界が滲んだ。それ以上レンと目を合わせていることが出来なくて、あたしは身を翻してリビングから飛び出した。玄関に脱ぎ散らかしていたローファーを履いている間も、レンはあたしを追いかけることも、止めることもしなかった。淡く期待していた希望も裏切られて、そのことがどうしようもなく悲しくて悔しくて、八つ当たり気味に乱暴に玄関のドアを閉めると、夏の夕暮れに飛び込んだ。
背後でがさり、と草を踏む音がした。
ぼんやりとさっきまでの出来事を思い返していたあたしは慌てて身を起こして振り返る。
しかし、そこにいたのはレンではなかった。あたしは絶望的な気持ちに返りながら、再び河原の草に寝転んだ。
「……悪かったな、レンじゃなくて」
あたしのわかりやすい反応にも、ミクオはいつものことで慣れているのか、怒りもせずにいつもの淡々とした口調でそう返した。普段は気にならないのに、今はミクオのそんな冷静な反応すらやけに癇に障る。不機嫌さを隠そうともせずにあたしは言った。
「何しにきたのよ」
「大喧嘩したみたいだからな。珍しく傷心しているであろうリンを見物に」
「最低。盗み聞きしてたわけ」
「人聞きの悪いこと言わないでくれる? あれだけ騒げば嫌でも俺の家まで会話が聞こえてくるんだよ」
ミクオはうちのお隣さんだ。あたしとレンの幼馴染で、昔から何かと一緒にいた。だから今日のレンとの出来事もいつもの喧嘩じゃないとすぐに感付いたんだろう。
ミクオでさえあたしの居場所を見つけられたのに、レンはあたしを探そうともしていないんだ。
薄々予想はついていたが、改めて目の前に突きつけられた事実にあたしの体はこのまま土の中に飲み込まれそうなくらいに落ち込んだ。小さな頃から迷子になったり家を飛び出したりしたあたしを一番に見つけてくれるのは、母親でも父親でもミクオでもない、レンだった。あたしを見失うことなんて、あたしがいつもと違うことにすぐに気付かないなんて、そんなこと一度も無かったのに。
(あんなの、あたしの好きなレンじゃない)
今の情けない姿をミクオに見せるのが嫌で、これ以上何も喋るまいと唇を噛み体を縮こめて拒絶の意思を表した。しかしミクオはあたしの無言の主張をあっさりと無視した。何も言わずに歩み寄ってきて、芋虫みたいに転がっているあたしの隣に腰を下ろした。あたしはますます体を小さくした。
「……帰ってよ。あたし本当に誰とも喋りたくないの」
「あそう。じゃあ喋らなきゃいいだろ」
「そういう問題じゃない。1人になりたいの。どっか行ってよ」
「リンが行けばいいだろ。俺だってここにいたいだけだから」
何てやつ。あたしが本気で落ち込んでいるのわかっている上で面白半分に見物する気だ。
レンに対する苛立ちは治まっていたのに、今度はミクオに対して苛々してきた。どこまで性悪なんだ、ミクオってやつは。こんなやつがもてるっていうんだから世の中わからない。確かに顔は良いけど、こんな性格ならあたしは絶対にお断りだ。レンだったらかっこいいし、何よりこいつより断然性格が良い。あたしだったら絶対レンのほうが良い。
そこまで考えてミクオへの苛立ちは消し飛び、また落ち込む。
そうだ。レンだってもてる。あたしの友達がレンのことカッコいいとか素敵って言うのは何度も聞いたことがある。あたしがそのことに対して苛立ちも怒りもせず、むしろ誇りに感じることが出来たのは、どんなことがあろうとその子とレンが恋人同士になるはずが無いと確信していたからだ。何があろうとどんな人が現れようと絶対にレンの一番は自分だと、根拠も無しに馬鹿みたいに本気で信じていたからだ。
だからレンに好きな人ができたという言葉が信じられなかった。当たり前のように信じていた世界が呆気なく足元から崩れていって、レンに裏切られたような気持ちになって、怖くて不安で、レンが大事そうに握っている便箋が無くなってしまえば戻ってくれるような気がしたのだ。その薄っぺらい紙があたしのレンを唆しているような気がして、だけどそれを破ってもレンは知らないレンのままだった。あたしに向けたことのない感情や顔をあたしに向けていた。
誰かのために。あたししか知らなかったレンの感情や表情を知っている、それかこれから知っていく誰かのために。
レンの前で見せることのできなかった涙が今更じわりとこみ上げてきた。
レンの前でならどんな感情も我慢せずにさらけ出すことが出来たのに。どうしてこうなっちゃったんだろう。いつからこんな風に変わってしまったんだろう。永遠なんて信じてないけど、レンとあたしの関係は、生まれてから死ぬまで何も変わらないと思っていたのに。
レンが変わってしまったの? それともあたしが変わっちゃったんだろうか。
苦しくて寂しくて、あたしはこれ以上無いってくらい体を小さくした。子宮の中の赤ちゃんみたい。
ああ帰りたい。お母さんのお腹の中でも寄り添って生きていたのに。あの頃みたいに、2人だけの世界で、誰よりも近くでレンを感じていたい。
あたしの横にはいつだってレンがいた。レンと2人で世界を見ていた。だけど今は独りぼっちだ。夕暮れに染まる街は、涙のせいで水彩画のように滲んでとても綺麗なのに、虹みたいにすぐに溶けてしまいそうなくらい儚く見える。初めて1人で見る世界は、今にも消えそうで、脆くて朧げだった。
「なあリン」
「…………」
答えない。
喋ると泣いてしまいそうで、でもミクオの前で泣くのは絶対に嫌だったからあたしは必死に涙を堪えた。これ以上馬鹿にされてたまるか。
しかしミクオは最初から返事なんて期待していなかったのか、いつものように淡々と冷静な口調で話し出した。
「お前はさ、レンに好きな人が出来てショックみたいだけど、なあ、そんなこと遅かれ早かれいつか来ることだったよ。むしろ遅過ぎたくらいだったと俺は思う。この世界はお前とレンだけじゃない。数え切れないほどの人間が生きていて、たくさんの人と出会うようになってる。そんな中で人は否が応でも変わってしまう。リンは自分が昔から全然変わっていないと思っているかもしれないけど、お前は変わったよ。もちろんレンも変わってる。自分たちは絶対に変わらないって信じていたみたいだけど、有り得ないんだよそんなの。黙ってたけど、レンも随分前から気付いてた。いつまでもそんなレンに気付きもせずにお前はどんどん変わっていって、そのことに今のお前みたいにレンは傷付いてた。だけど怒りもせずに黙ってお前を見守っていた。それなのにお前はいざレンが変わってしまえば子供みたいに喚いて怒ってレンを引き留めようとしてる。それってひどいことじゃないか。先に傷付けたのはお前なのに。自分に好きな人が出来ても、レンは自分を一番に思ってくれる。絶対に他の誰のことを大事にしたりなんかしないなんて、子供みたいなわがままがいつまでも通用するなんて思ってたのか。レンのことをそんな都合のいい存在だと思っていたのか。そうだとしたらリン、お前はひどいやつだよ。そうやってレンのことを今まで傷付けてきたんだ。本当に、ひどい人間だよ」
ミクオは一気にそれだけを話して、また黙り込んだ。
あたしも黙っていた。
赤ん坊みたいに体を縮こませたまま、黙っていた。
沈黙。
あたしはそっと握りしめていた拳をほどいた。この手はもうレンの手を握ることは無いのかもしれない。それならもう、永遠に、誰の手も握らないままなんだろう。
夕日が地平線に溶けきって、闇が独りぼっちのあたしの体を飲み込んだ。その瞬間、あたしはようやく涙を零した。
リンの小さな肩が揺れるのを横目で見ながら、本当にひどいのは俺の方だと思った。リンを憐れむ一方で、早くレンのことなんか大嫌いになりゃいいと思っている。その結果、こうやってリンのことをずたずたに傷付けてしまうようなやつなんだ、俺は。後から自己嫌悪に陥るくせに、やっぱり最後には願ってしまう。リンが早くレンとの絆が深く繋がっているなんて、幻想だと思ってしまえば良い。そうしたらすぐにでも彼女の視界に入ることが出来るのにと。いつだって俺とリンの間にはレンがいたし、俺とレンの間にはリンがいた。だけどリンとレンの間には俺はいなかった。いつだって3人だった。だからリンと2人きりになるのは本当に久しぶりのことだった。いや、もしかしたら初めてのことかもしれない。
最近は、3人で一緒に登校することも遊ぶことも少なくなっていた。それは自然なことでもあったが、俺が意図的にそうしているのも原因だった。3人でいることに息苦しさを感じた日から、じわじわと酸素を奪われていくように苦しみは大きくなっていった。幼い頃はあんなにも心地よく感じていた居場所が、いつから苦痛に感じるようになったのだろう。
……リンも、レンも、そうだったのだろうか。
傍らのリンに視線を落とすと、泣いていることを悟られまいと必死に嗚咽を堪えている。その後ろ姿は今まで見たことないくらいに小さくて、脆くて、抱きしめたらそのまま砂みたいに崩れてしまいそうだった。
「リン」
そっと肩に触れると、リンの体はびくりと震えた。
「触ん、ないで」
「……泣くなよ」
「泣いてない」
「泣いてるだろ」
「泣いてない! あっち行って!」
「リン」
ほとんど泣き叫んでいるような声を無視して、乱暴に体を引き起こした。嫌がって暴れるリンの両腕を乱暴に取ると、涙で濡れた青い双眸と驚くほど近くで目がかち合う。
「泣いてるじゃん」
「……っ、あんたが、泣かしたんでしょ……!」
「また人の所為?」
そう言えば、リンの体は再び小さく震える。リンの心にまた1つ傷が付いたのを確認して、俺の中に罪悪感と快感が同時に広がっていく。傷付けたくない、のに、傷付けたい。矛盾している。そんなこと、自分が一番よくわかっている。
「そんな、こと」
「違うの?」
「ちが……ちが、う、あ、あ……あた、あたし……」
ぽろぽろとリンの瞳から涙が零れる。こんな風に子供みたいに泣きじゃくる姿を見るのはずいぶん久しぶりのことだった。いつの間にかリンは俺の前で泣かなくなっていた。誰にも涙を見せなくなったリンは、唯一レンの前でだけ涙を見せていた。リンは隠し通しているつもりだったかもしれないが、俺にはそれがわかっていた。子供みたいな独占欲だと思いながらも、その事実はたまらなく不快だった。
だけどそれも今日で終わりだ。多分リンはもうレンの前ですら泣かない。これからは誰にも涙を見せずに、1人でひっそりと泣くのだろう。
リンは泣いている姿を見られるのが嫌なのか、俺の手から逃れるために必死にもがきながら顔を伏せる。夕日が完全に沈んだ河原には、闇が忍び込んできていた。
「リン」
「やだ、やだっ、もうやだっ、レンのことなんて何も聞きたくないっ! どっか行って! 行ってってば!」
暴れながらリンは悲痛な声で叫ぶ。
これだけ俺が近くにいても、まだレンのことを考えるのか。苛々が募る。暗い憎悪が渦巻き、折れそうなほどに細い手首を握る掌に力がこもる。そうだ、昔からそこだけは変わっちゃいない。いつまでたってもレン、レン、レン。本当に嫌だったよ。どうしようもなく辛くて、だけどどうしようもなく好きだったんだ。どうしてわかんないんだよ。どうして伝わらないんだよ。
そのまま前に身体を傾けるとリンは驚くほど簡単に草の上に倒れた。押し倒されたリンが睨み付けるように見上げてくる。
「リン、お前って本当にひどいやつだね」
「うるさいばかあっ、ミクオこそ何でそんなひどいこと言うの? お願いだから、本当に1人にしてよぉ……っ!」
諦めろよ、という言葉はどうしてか喉につっかえて出てこない。
諦めろよ、双子の恋愛なんて成就するわけないじゃないか。だから諦めちまえ。そうすれば楽になれるんだ。そんな感情、お前の心を何も満たしちゃくれない。いっぱい傷付いて傷付けて苦しくて憎らしくて殺したくなるくらい死にたくなっても相手が一番大切なんだ。嫌いになりたくてもなれなくて、諦めたくても馬鹿みたいに無意識に求めてしまうんだよ。なあそれって辛いだろう。その辛さは俺だって知ってる。だからお願い。お願いだから。
お願いだから、リン。
もがいていたリンの動きが、ふっと止まった。小さく息を呑んでから、ミクオ、とリンが呟く。俺を睨み付けていた瞳は見開かれていた。
「どうして、泣いてるの」
ぽた、と滴がリンの頬に落ちた。
わからない。一体どうして俺は泣いているんだろう。これは何の涙なのだろう。こんな気持ちを抱えたことなんて初めてじゃないはずなのに。
ミクオ、ともう一度リンが俺の名前を呼ぶ。さっきとうって変わった心配の色を浮かべた表情だ。何だよ、優しくするなよ。俺はお前を傷付けて、ひどいことをしていたのに。そんなやつが泣いたくらいでそんな顔するなよ。優しくしないでくれよ。中途半端な優しさなんて、悲しくなるだけなんだから。そんな残酷なことってないだろう。どうせ、ぼろぼろになってもリンはレンが一番大切で、これからもきっとそうなんだ。そして俺は相変わらずその横でリンを見守ることしかできないんだ。
それなら、もう、いっそこのまま壊してしまおうか。ずっと変わらないのなら、今まで築き上げてきたリンと俺の世界を、壊してしまおうか。
リンはもっともっと傷つくかもしれない。だけど、もうこのままは嫌なんだよ。
「リン」
好きだ。どうしようもなく好きなんだ。お前のことが本当に本当に好きなんだ。こんな風にしか愛せなくてごめん。臆病者で、本当に、
「……ごめん」
俺の唐突な謝罪にリンは訝しげな表情を浮かべた。きっとさっき言ったことについての謝罪だと思っているのだろう。そういえば昔から一度だって、喧嘩の時は俺から謝ったことは無かった。だからリンは珍しく俺から謝ったことに驚いているのだ。
どこまで馬鹿なんだよこいつ。この状況で身の危険を感じないで、呑気に自分を押し倒した男の心配するなんてさ。普通おかしいだろ。
思わず場にそぐわない苦笑いを浮かべそうになる。だけどそんな目の前の存在が愛しくてたまらなかった。
お前とレンだけじゃない、俺だって変わったんだよ。だけどこの気持ちだけは、それだけは昔から変わらなかった。変わることは出来なかったんだ。
夜の立ち込める静かな川原は、涙と夕闇でぼんやりと滲んでいた。だけど目の前の青い瞳だけは、はっきりと捉える事が出来る。
掴んでいた腕を放して、リンの頬を両手で包みこむ。そのままゆっくりと体を傾ければ、リンが驚いたように口を開いた。彼女が誰の名前を呼ぶのか聞く前に、その唇は塞いでしまおう。
10.05.03
確かに一つだった。